(2012年10月11日)
都市工創設以降の環境系での活動と、今後への期待についてお聞きしました。
聞き手(文責):栗栖聖、古米弘明

都市工創設当時の都市計画と衛生工学を一緒にして建設系の学科として設立した際の経緯、その頃の学科の雰囲気等

私が助手になったのは、1966年4月で、博士課程1年の時に中退して助手になりました。ですから、創設の頃と比べるとちょっと後になるから、経緯についてはあまり良くわかってはいないのですが。

京都大学と北海道大学に、時代の関係は明確ではないのですが、戦後のアメリカ軍の意向を受けて衛生工学科が出来て、東大にも当然必要だろうということが背景にあったのだと思います。最初文部省の計画では、京大、北大に続いて衛生工学科を作ろうという意向があったらしいのですが、そこに、建築系の高山(英華)先生、丹下(健三)先生という大物がいて、新しい概念で、都市工学というか都市計画で東大は打って出るべきだということを言って、その声の方が強くなった。だからそういう意味では、京大や北大に比べて、東大での衛生工学の分野は小さめになってしまった。出発点が非常に限られた分野しか持たない衛生工学になってしまった、というのがあったと思うんですね。他は、水だけじゃなくて大気関係とか保健衛生関係も最初から衛生工学の方に入っていた。当初の意向としてはその方がサニタリー・エンジニアリングの形としてあるべき姿だと思っていたのではないかと思うんですけどね。それが事情は分からないけれど、東大の工学部から学科新設を出す時には、都市工学科で出ることになったと。衛生工学だけで4コースにするかというとそうではなくて、交通計画も入ってきていたということですね。そういう意味では、学内政治の関係でこのような構成が決まったと思いますが、真実のところは不明ですね。環境衛生の分野から言えば、小さい規模でのスタートでした。

― 最初のスタートのころから、3つの講座だったのですか?

最初に徳平(淳)先生が、土木から移られて第二講座が出来たのかな。それから石橋(多聞)先生が、厚生省から来られて、第一講座で水道をやると。徳平先生が下水道をやると。それから杉木(昭典)先生が、国交省、昔の建設省だけど、そこで特に隅田川の汚染問題などをやっていたので水質汚濁、産業排水といった分野を第三講座がやる、というので始まったんですね。

― 最初の先生方を選ばれた経緯はご存知ですか。

それは、私は全く知らない世界ですね。衛生工学という分野は、どちらかというと役所が実務をやっていたところがあって、役所から人を呼んでこようと言うのがあったのだと思います。水道分野でも大学での人材自体が非常に数がまだ少ない時代でしたね。水道はいくらかいたかもしれないけど、下水なんてまだ役所にも下水道課というか専門の分野がなかった。下水道協会が出来たのが1964年だから、この頃はまだ下水道協会もなかった時代で、水道協会のなかに下水道部会みたいなのがあった。水道研究発表会にいって下水道の話をしたり、土木学会のなかでも、水道の方が主役で。まだまだ小さい分野でしたね。世の中的にもまだ下水道普及率は低い状態でね、この頃は1ケタ台かもしれないですね。そういう意味では非常に下水は遅れていた。だけども、下水道は必要だというのが背景にはあったと思うんですよね。

― この頃来られた先生方は、卒業して15年くらいで教授として講座を持つようになったということですね。

そうなりますかね。民間の水処理会社も小規模でしたし経験の蓄積が少ない時代でしたからね。

― この頃の最初のカリキュラムや、環境系でこういう授業をやっていくんだというのを決められた経緯はご存知でしょうか。

それも私は直接には関わってないんだけれど、やはり、土木の水系だというのは一つ大きな要素であって、公務員試験の土木職を受けさせようという意図はあったと思う。

衛生工学職というのが議論されたこともあったようですけど、結局厚生省や建設省の中では、造園とか、活躍出来る場所の狭くなる専門職は避ける方がいいという判断であったと思われますね。そういう意味では、土木職で広い土木の中でやれる方が本人にとってはいいんじゃないかということで、土木職の試験を受けられるようなカリキュラムに、というのがベースになっている。材料力学や構造力学、コンクリートだとかね、土木の方の科目も取りながらやると。少なくとも、水理学は都市工で自前でやろうっていうのがありましたね。

― 今、基礎流体力学を社会基盤の方で一緒にやろうと去年くらいからなってきてますね。

それは、趣旨からいくと良くない。そうやっていくと、結局専門の基礎知識が無くなってしまう。都市工の学生さんたちの自信までなくさせてしまうことが心配ですね。教える方の負担は大きいかもしれませんが、それを嫌がっているとすれば問題ですね。研究テーマは当然に広がり変化するでしょうが、流体運動にかかわる基礎知識は当然に必要ですし、守っていって欲しいところですね。そういう意味では、大気汚染とかね、今は水だけじゃない環境分野があって、そういうとこで流体力学の問題はあるわけだから。それを上手く反映して教科書に作れば、他の環境系の学科でも使ってもらえる。

流体力学を教えるに当たっては、基礎をちゃんと教えようとするとそこだけでも結構時間を取られるところがあって、なかなか応用まではいかなかったところもあるけれど、一つの専門基礎として必要だと思いますけどね。今はどうなっているのか知らないけれど、公務員試験で専門として水理学と材料力学とコンクリートの内、どれかは取らないといけないなら、その中でも少なくとも水理は自前でやって、都市工卒でも水理は専門として受けられるようにしておこうと。コンクリートなんかはね、土木と一緒にやって。そういう意味では、一つのアイデンティティを求めてやっていた。

― 最初の頃から普通の授業の他に演習もあったんですか。

演習は最初の頃は計画コースと一緒にやっていたね。団地の計画とかをやる時は、衛生施設、今でいう環境施設については、環境系の学生が担当していた。僕らも団地の計画に参加してやってましたね。ちょうど団地が一番盛んな頃で、住宅公団のあっちこっちの団地で、どういう施設を組み合わせて、どこに配置して、どんな建物を建てて、っていうのをやってた。だからね、僕らは最初のころは、計画コースの学生さんのこともよく名前を覚えてた。

― それは例えば班作業の時には計画系と環境系の学生を一緒に混ぜてやっていたということですか。

最初の頃は、都市工学科一本で50人採ってましたからね。駒場から来る時に。来てから希望に応じて分かれることになってた。なので、演習も一緒にやってましたね。だけど、それが次第に、なんというのかな、環境の人たちがついつい計画の方へ行きたがるようになってきて(笑)。計画のことをやりたいっていうのが増えてきて、卒論で計画系に移るとかね。そういうのが出てきて、ちょっとあまりにも混乱する形があった。我々としては、専門分野を社会的に守っていくというか、維持していく責任があるから、若干自衛策として、進学振り分けのときに18人を分けて、最初から環境系(衛生工学コース)として採るスタイルにしようということになった。

― 何年くらいで変えられたんですかね。62年に設立されて、数年でそういう形になったんでしょうか。

2、3年で変わってるかもね。かなり早かったですね。

― 最初の頃は実験はなかったんですか。

いや、あった。環境系の学生だけやっていましたね。実験は宇井(純)先生が、とにかく試験管の洗い方から蒸発皿の測り方まで実験の基礎から教えてた(笑)。そういう意味では、実験は絶対無しにはできないというのがあったね。

― 計画系と演習を一緒にやっていた頃から、環境系だけになった時にどんな内容の演習になったんですか。

流域環境計画が中心であった。班ごとに川を選んでもらって。荒川とかね。その流域の市町村等を選んで環境計画を立てる。人口を推定したり、どこで水源を得て街に配水し、下水をどこへ集めて下水処理場を建てたらいいのかとか、ゴミ焼却場はどうしたらいいのかとかね、地図を見ながら実際の地域の問題を考える。そういう題材を選んでやってた。現地も見に行くし、話も聞きに行くし、選んだ町のね、地域、あるいは都市の環境計画を作ると。そのなかに、土地利用なんかも出てきて、そういう意味では、ある程度、見様見真似で都市計画的なものも中に入れながら、一方で、川の流れで自浄作用が進むとかいう水質の問題などを核に据えてやっていたね。

基本的に、地域の広がりを持ちながら環境問題を取り上げて、しかも、実践的な要素を入れながら演習を組んでましたね。

69年頃の大学紛争の思い出

色々ね、個人的な思い入れも強いんだけどね。都市工は、一番工学部の中では、東大の中でもね、先鋭的な人達だったから。色々事情はあったんだけれども、都市工は一気に火が付いた。激しいのに巻き込まれて、大学自体が悪いとかね、造反有利だとか、まさに紅衛兵のね。一気にその方向にいって、燃え盛ってしまった。8号館や安田講堂が封鎖されたりとかね。個人的には中の学生さん達とは以前から話はしていたんだけれど、立場上、教員になりたてで、ファカルティメンバーの中でも一番若かったから。徹夜で団交をやったりとか。立てこもっちゃって、安田講堂に残った学生もいるわけ。そういうのと、上手く出てその後役所に入って偉くなっちゃった人もいたりとか。精神的にプレッシャーを受けてその後うまくいかなくなった人もいたりして。まぁいろんなことが有った。今いるシニアな教授にしたって、その影響を受けてきている。そういう時代でしたね。全学的には学生の動きは治まりかけたころに、全共闘の山本義隆とか有名な人物が都市工学の問題にもかかわってきたりして、職員問題とかね、色んなのが重なったもんだから結構長引いて、都市工だけは騒ぎが続いたという時期がありましたね。

― 学科の雰囲気的には、その頃はどういった感じでしたか。

よくないですよ。居残りする学生さんたちを毎晩追い出して、建物に残しちゃいけないんっていうんでね。パトカー呼んだりとかね。今は平和なもんでしょう(笑)。

― 噴出するほどのエネルギーがあった時代という気もしますが。

世の中自体に活気があった。就職とかには困らなかったんだよね。なんか生活出来るっていう。今は、フリーターなどと言って就職しないし人もいるけど。あの頃は、都市工出て、自分で会社を作るとかいるわけですよ。起業家で一人でも始められるし、それなりの仕事があったんだね、不思議なことに活力はありましたね。

― どういう分野にいかれた方が多かったんですか。

やっぱりコンサルタント的な仕事が多かったですかね。建築系の人は、事務所をやったりとか。建築の方が需要はあったから。あとは、省庁もいたけど、やっぱり一番目立っていたのは商社とか銀行とか。あの頃は、理系の文系就職が流行りだした頃だからね。向こうが喜んで採った。

― 採用する方は、都市工的センスを期待してということですか。

一応、海外での仕事も増えそうだってこともあったんだろうね。商社とかも今の水ビジネスとかじゃなく、もっと物とかを扱う職種に就職していた。あとは特例かもしれないけど保険屋さんへの就職もあったね。リスクの計算が必要といったことから、そういう点で理系を選ぶようなことがあった。そういう意味じゃ理系ってことで期待されていたのかもしれないね。他の学科の機械とか電気とかでは、非常にオーソドックスに自動車メーカーとか機械メーカーとかにいっていたけど。ソフトなところに来てくれる理系の学生ってのは都市工の学生だったのかもしれませんね。しかし、そのすぐ後では、機械や電気の人たちも文系就職をするようになりましたね。都市工は先端を行ってたのかも。

― 大学院に進む学生さんは、どれくらいいたんですか。

大学院は、それなりに何人かはいて。確実に修士まではいって、博士も3人か4人は行ってたんじゃないかな。紛争後の最初の大学院生は花木(啓祐)先生の代の前後の人達ですね。花木さんとすでに故人ですが海野(英明)さん、その前年に茨城大学の三村(信男)さん、筑波大学の福島(武彦)さん、山梨大学の平山(公明)さん、学部は京大から来た元水道課長の山村(尊房)さん達がいて、このあたりの4、5人が核になって大学院が本格的に始まったんですね。夏休みの大学院合宿が始まったのもこのころですね。それからは、それなりにドクターも何人も、修士もそれなりにいましたね。

― この頃は卒業研究とかは、どんな感じのことをやってたんですか。

卒業研究はね、そんなに変わんないと思うけどね。結構水処理の実験をやってくれた人はいたと思うし、悪臭を発しながらコンポストに実験をしていましたね。その頃は、藤田(賢二)先生が来られて、第一講座で水道をやられて、第二講座は、教授がいなかった時期で、市川(新)先生が助教授で。私は、第三講座で。教授になったのが1982年でしたね。

留学生特別コースのスタートについて

― 大学院での話にはなりますが、留学生特別コースがスタートする90年前後までは、留学生はいなかったのですか。

留学生はね、非常にポツポツと。韓国の朴先生っていうのが、結構有名人なんだけど、ソウル大学からこっちに来てて。ちょうど紛争中に実験やってて、博士を取って帰ってソウル大学の教授になっていました。台湾の欧陽先生が来ていたりとか。今では、朴先生は韓国の学士院会員に選ばれてますし、欧陽先生は台湾では環境関係の著名な大御所となっておられますね。

― 体系的に留学生が来出したのは、90年の特別コースが出来てからですか。

85年ぐらいからは先ほどの話のようにほぼ体系的になってはきていましたが、留学生を受け入れる特別コースは90年からだと思います。土木が、文科省から特別の奨学金を貰って、英語で講義をやるっていうのを始めてた。じゃあ都市でもやろうじゃないかということで、年間3人かな。計画系は英語で講義をするのはやらないって言って、環境だけでまずは3名取ろうと。

他の学科でもやりたいっていうのはあったんだけど、結局実現していなかった。僕はだから本部庁舎の留学生課に、直接頼みに行ったりとか、文科省に説明に行ったりとかしたね。留学生を採る先に関しては、AIT(アジア工科大学)から赴任して帰ってきた教員陣もいたから、AITの学生をまずはドクターで入れようと。それが始まりだよね。

― AITへの赴任は、一番最初はどなただったんですか。始まった経緯は。

最初は北大関係で渡辺(義公)先生が行っておられましたね。次は東北大学の大村(達夫)先生が行っていますね。松本純一郎先生が、長い間第二講座の教授を東北大学と兼坦でやられていて、AITに人を出さないかって言うので、じゃあ東大でもやりましょうと。その頃、私もちょうどアメリカから帰ってきた所で、次の年にAITを見に行ったりしましたね。その上で、大村先生の次は大垣(眞一郎)先生(現 国立環境研究所理事長)に行って貰おうかって。その頃大垣先生はすでに助教授になってた。その辺からは、綱渡りで。次から次へと(笑)。AITに出ないとダメだ、助教授になったら行かないといけないって言って。それで、かなり経験した人が増えてきたんで、特別コースも出来るだろうって。英語コースをね、始めて。それ以来、先生になるには英語が出来ないといけないっていう雰囲気にはなったと思う。

― 設立当初から、留学生もいたとのことですが、授業は英語でしていたんですか。

それはもう、全然やってない。最初のころはね、日本語だけ。相手も日本語が出来る人しか来ないから。皆さんそうだったね。

― 留学生特別コースが出来たころから、授業のほうも英語で提供し始めたということですよね。

そう。特別コースは英語でやるということでしたね。研究会も英語で発表して彼らは英語で私らと話して私らの前では一切日本語は使わなかったけど、学生同士はね、留学生の方が先に日本語が上手になる感じでしたね。

― 教員とのミーティングとかでは日本語を使わないけど、みんなでしゃべる時は結構日本語でしゃべって。

そうそう。結構上手なんですよ、彼らは(笑)。この頃から、日本人の学生さんたちからも英語の論文が増え始めるね。研究成果も英語で発表するようになってきて。そういう意味じゃ、国際化が非常に進んだと思うけどね。

― 特別コースが始まったころに、苦労されたことはありますか。

それはやっぱりね、日本語を教える仕組みを考えるのが大変だった。土木の日本語教室に入れてもらおうともしたけど、土木の学生だけでいっぱいですと言われて、こちらもそれに対応するようにしないといけないからね。この頃から味埜先生の奥さんが手伝ってくれたりしていましたね。

― 日本語教室は今は都市工にありますけど、そのころはまだ出来てなかったんですか。

あの頃はね、まだしっかりは出来てなかった。それで、日本人の学生を付けて、お店とかにも一緒に行ってもらったり、送り迎えなんかもね、暫くはチューターの学生がやっていた。成田に迎えに行ったりとか。

― 成田には今もチューターの学生さんが迎えに行ったり、手続きを色々手伝ったりとかしてますね。

そのころは、まだ非常に不完全な状態で皆さんに迷惑かけたかもしれないね。

― 最初のころは、どこの国の学生さんが多かったんですか。韓国とかですか。

そうね、韓国とかね。韓国は特別プログラムとは別にね、いたんだ。金さんとか黄さんとかね。

― 黄さんはいっぱいおられますよね(笑)。

そうそう。私の知っている黄さんは仁川(インチョン)大学の先生になっていますね。その他かなりの学生さんがいましたね。それぞれ、韓国の大学で頑張っていると聞いています。その人たちは、日本語を習ってきた韓国の人たちで、英語よりは日本語が得意っていうような人たちでしたね。

― 向こうで既に習ってきて、ミーティングも全て日本語ですよね。

そうそう。だから私の日本語が一番分かりにくいなどと言われたこともあります(笑)。

― (笑)。韓国以外はどこの国の学生さんが多かったですか。

韓国以外は、AITの英語コースの人がずっといましたね。これはもう、色んな国の人がいて。ペルーの人が来たりとかね。ノリエガさんとかね。彼は、ちょうどペルーの日本大使館が占拠された時に、大使館の中にいて被害者だった。だけど彼は先に出されて、バスに乗る映像に彼が映ってた(笑)。今どうしてるかな。

― この頃って、大学院生は全部でどのくらいいたんですか。30人とか。

どうだろうね。修士も入れれば、そうかもね。日本人院生の枠が教授1人に学生2人くらいでしょ。留学生は別枠だったから、それくらいはいたと思うよ。そのうち留学生が半分くらいはいたんじゃないかな。

― 今でも留学生は半分くらいです。今環境系全体で大学院生が70人くらいいて、その半分くらい留学生ですね。

多いね。それはどういう奨学金で来てるの。

― いろいろですね。日中韓での奨学金で来ている中国の学生さんもいますし、もちろんこの特別プログラムで来ている学生さんも。私費で来ている学生さんもいますし、あとは企業とかパナソニックとかの奨学金で来ている学生さんもいますし。結構いろいろですね。特別プログラム以外の留学生が来る枠組みが増えたかもしれないですね。

あぁ、そうだね。あとADB(アジア開発銀行)からも採るっていうのがあったんだな。私のいた最後の方でね。

― この頃はADBの奨学金はまだなかったんですか。

まだなかった。それは、僕が辞めるころじゃないかな。もうちょっと前くらいかな、やったらどうかっていう話はあったんだよね。

先端研、環境安全センターについて

― 先端研に最初に行かれたのはどなたですか。

先端研については、経過が少し複雑で先端研の前にあった境界領域研究センター(名前は不正確かもしれません)からの経過があるのですが、都市工からでいえば、伊藤滋先生が最初だったと思います。しかし、先端研で大学院担当することになるあたりの最初が花木先生だったのだと思います。縁の薄かったセンターに都市工関係のポストをつくるということは、かなりの荒業だった。こう何もないところに、いきなりゼロから作ったからね。私が工学部の研究組織委員会にかかわっていたことも役だったようには思いますが。環境系と計画系で教授と助教授を襷掛けで、入れ替えるっていうのを考えたりして。今の運営はどうなのでしょうかね。

― 環境安全センターの方はいかがですか。

環境安全センターは、僕がセンターの運営委員か何かになっていて、中西(準子)先生を教授にして出すことにした。その代わり教務職のポストを一つ出したんだよ、横山(道子)さんのポスト。彼女を助手にして、その代わり一つ教授のポストを採ると。そこへ中西さんを入れる。これも結構苦労したんだけど。有馬(朗人)総長のころかな、吉川(弘之)総長だったかな。今は結局あそこで1講座出来た?

― 山本先生と中島先生と福士先生で1講座出来てますね。

おかげで1講座増えたんだね。廃棄物を主として、山本(和夫)先生に支えてやってもらうっていうのが、中西さんが辞めた後のビジョンだったね。
センターでは廃液処理も全部自前でやってた。その代わり10年期限で始めて。結局生研?からも教授が来たし、化学工学からも来て、あそこは今3講座くらいになってるのかな。

― 先端研の方は、特定の分野を、というのはあったんですか。

それは、所謂ソフトな分野を、というのはあった。本郷の方は、どちらかというとハードな研究を、実験とかやるけど、先端研は実験とかの施設はないから、ソフトな分野をやろうと。ちょうど地球環境問題とかが出てきた頃だったから、花木先生なんかは先端研にいってソフトな分野の研究を始めることになった。あの人は有能だから何でも対応できるから。

― 花木先生は最初は嫌気性処理をやられておられましたよね。松尾先生がこれからは温暖化だって言われたという話を伺いましたが。

勿論、分野としては、一生水というのも確かにあるんだけど、先生とか上に立つ人は、自分がどんどん変わっていかないといけない。もちろん生涯一分野と言うのもありだけど、下の人が育つ場所を狭めてしまう危険性があると言うことで、やっぱり駄目だっていうのが私の主義だったから。先に先生が変わる。そうすれば若い人たちはね、そのテーマを続けたければ続けて、あるところまできたら変わればいい。

― そういう意味では、先端研で温暖化のことも始め、安全センターで廃棄物も始めて、環境系の研究分野の幅が広がった時期ともいえますね。

そう、幅が広がったんですよ。

クボタの寄付講座に関して

クボタ講座は非常に画期的で、環境分野では日本の中でも東大が初めてクボタの寄付講座をやったんだよね。クボタの関係者(その方は東大出身じゃないんだけど)が寄付講座を提供してくれるというんで、藤田先生が受けてこられた。あの当時北脇(秀俊;現 東洋大)さんとか、桜井(国俊;現 琉球大学)さんとか、海外で活躍していた人を入れて、国際化をテーマにやろうっていうのが狙いだったよね。

― すごく印象に残ってますね。学部の演習も桜井先生と北脇先生が、開発途上国での問題をテーマとして掲げて演習をやるという、今までの演習とは少し違う演習を組まれてましたね。卒論も海外に行って調査をするというのが始まったような時期ですよね。

だから、そういう意味では都市工の国際化の上では、非常に彼らが機能してくれたと思うんだけどね。

― 寄付講座はクボタの方から突然申し入れがあったんですか?

元々、藤田先生を通して話があって、是非やろう、ということで受けましたね。非常にクボタも調子の良いころだったと思うんですよね。この頃が、日本のメーカーが一番元気だったころかもしれない。

― 卒業後の就職先にもメーカー就職とかが多かった時期ですよね。桜井先生とか北脇先生はWHOとかで活躍されておられたんですよね。

そう、北脇さんはWHOでやってたから、一番いいだろうと。桜井さんは大学院修了以来、外でやってて。彼の能力をなんとか出来ないかというんで。そういう意味では、少し役立って貰おうと寄付講座の教授をお願いした。彼(桜井先生)はその後選挙に出たり、沖縄にいってね、沖縄大学の学長までやってるから、達者な人ですよ。

― 環境系だけでなく、計画系の学生さんもクボタの講座で連携してましたね。瀬田(史彦)さん(現 都市工 准教授)とかは、計画系ですけどクボタの講座と連携して卒論をやられたりしてましたね。どれくらいクボタの講座は続いたんですか。

元々は、一期5年ってことでしたね。延長したのかな。私が退官した時(2000年)はもうなかったですね。

COEプロジェクト・国際シンポジウムに関して

― 微生物関連の一番最初のCOEはいつ頃でしたでしょうか。

5年のうちの4年で僕は辞めてるから1996年くらいかな、COEを取ったのは。東大の中でも数少ないし、工学部の中でも2件でしたね。なんで私らが取ったのかっていう、非常に羨望があった(笑)。なんで下水処理なんかやっている都市工がCOEなのかわかんねぇ、って言うのが大勢いたね。東京都からも実験場を作ってもらったりとかね。よく取れたって言えば、よく取れたよね。色んなことを言う人はいたんですよ。

あの時、僕はプレゼンテーションをパワーポイントなどは無いから、OHPでやったんだけども、ようするに、ただの下水処理って思うかもしれないが、非常に科学的な意味があるんだと。実際の現場の実験装置を持たないと、何故そうなるのかとか、実際どうなるかとか、わかり得ない。それが欲しいんだと。そういう意味では、水処理の分野をね、サイエンスに近づける。サイエンスと技術との融合っていうのをね主張したわけ。

それで、たまたまラッキーだったのが、有馬(朗人)元総長が審査員にいたし吉川(弘之)総長もいたし、東大の副学長だった鈴木(昭憲)先生もいたから、審査員の中に私の知ってる人がいてくれた。あと京大の総長とかね。それらの人の前で、素粒子の物理学が発展するためには加速器が必要だと。加速器みたいなものが現場の処理場できちんとコントロールしながら出来るようになって、初めて現象を理解できる。そういう場を持たない限りは、いつまでたっても経験からになってしまう。どうしてもサイエンスと技術との橋渡しをやりたいんだって、熱弁を振るったんですよ。下水処理のパイロットプラントは加速器と同じだって、それだけ言うなら、やらせてみようかって思ってくれたと思うんだけどね(笑)。

― 実際の現象を調べられる現場があるっていうのは、大きかったですよね。芝浦(下水処理場のパイロットプラント)がその時ですよね。

そうそう。それで東京都に頼んで、建物を建てさせてもらってね。こちらの管理でやりますからって。サンプリングを出来るようにしてもらってね。よくやってくれたと思うんだけど。あれも今は、無くなっちゃったの?

― 芝浦はもう無いですね。今は、砂町(水再生センター)にありますね。

― COEに絡めて国際シンポジウムも行っていましたね。

毎年国際シンポジウムをやってたね。発表会って言って、安田講堂とかでやったりね。この頃、この分野での英語での論文数が、東大の環境系が日本の中では飛び抜けてたし、国際的にも評価の高いレベルに達していた。それはね、留学生を出したり、みんなをね、日本人も、兎に角、外に行って発表するってのが当たり前になってたってのがある。その結果として、国際化は東大が一番進んだってのがね、その成果だったんだと思う。COEの成果だし、留学生もやってきて、みなさんが兎に角外に出ること、英語で論文を書くことに関して当たり前になった雰囲気があったね。

― 日本人の学生さんで海外に留学する人もいたんですか。

それは、少なかったんだよ。日本のなかで納まっちゃってましたね。英語使えるのは結構いるんだけど。東大から留学した人ってのは非常に少ない。一度就職した人が、そこからアメリカにいったりとかドイツにいったりとかは、結構いるんだけどね。日本の基礎研究だって大事だし、みんな留学して外に行って日本が空洞化しても困るところがあるしね。今の時代、留学留学って言うけど、そのへんは良く考えないとね。

今後の都市工学科についてのご意見、学科発展へのメッセージなど

それぞれ頑張ってるって思ってるんだけど。最初は3講座で3人の教授だったのが、今は6人で2倍になってる。そういう意味じゃ、この50年で教授が倍増してる学科なんてないと思うんだよね。助手(助教)の人数が減ってるってのは、問題なんだけど。

― 最初の頃、助手(助教)の人はどれくらいおられたんですかね。

3講座に対して、5人くらい。1.5倍はいた。

― 今、都市工(環境系)の助教は2名ですね。実質は、都市工で2名GCOEで1名の3名です。

― 駒場からの進振りに関してはいかがですか。

自治体とか現場の仕事との組み合わせが、活動のなかに見えると良いと思うんだけどね。社会基盤が進振りで良いのは、不況だと言いながら根強い潜在的な仕事があるはずだって思われてるというのがあるんだろね。環境関係のそういうニーズがあるということ、役所で言えば環境省とか国交省に限らずいろいろな分野でもそういうニーズが多いということを示していかなくてはいけないと思うんだよね。外から見て魅力的な出口があればね。水ビジネスもあるし、環境が国際的な意味でも大事っていうのもあるし。改めて、最も国際化している学科なんだということを示していかないと。

― 研究の面ではどうですか。研究として新たな発展があるとすると。

水処理なんかもね、遺伝子レベルで細かくなってる割にはね、新しい視点は少なくなっているのかもしれないね。社会全般に対して思ってることなんだけど、例えば水質汚濁に関心が減ってきてる。どんどん綺麗になってきちゃって、関心が無くなってるんじゃないかな。下水道を繋がなくてもいいとか、ぬけぬけと言って法律改正しようっていう議員グループがいるわけ。おかしいと思うんだよね。昔だったらね、経済性と環境とどっちをとるかっていったら、環境って言ってたんだよね。今は、(コストが)高いから環境のことはやらなくていいっていう。そういう意味じゃ、新しい産業的なものとの関連とか、環境の分野から入るけど健康とか医療関連とか、エネルギー関連とか、技術の分野での存立基盤を広げる活動を始めたらいいのではないかと思うんだよね。社会が求めているものに遠慮しないで取り組んでいく勇気が必要だと思うけど、どうかな。マンネリ化していないか見直してほしいですね。

学生へのメッセージ

今の学生さんはね、やる仕事自体は多様にあると思うのね。地球環境問題からローカルな問題から。放射性廃棄物もね。原子力発電の問題をどう評価するかとか、インフラのメンテナンス技術とか。その時、自分で興味を持てる範囲を絞り込んで、そのテーマにこだわりを持つことは絶対に必要だよ。関心を持って、環境問題とか地域の問題とか都市の問題とか国のあり方の問題まで含めてね、どうあるべきかとか、なんでそうなのかとか問題意識を持ってやれば、自ずとやりたいことも見えてくるだろうし。社会がそれを必要としてると思うからね。自分が解らないとか、どうしてかって思ったら、それは誰にも解ってないと思っていいんだよ。偉そうな人が前にやったとかいっても、そんなことは気にしないで、自分がやりたいと思ったら解るまでやってみたらいい。自分のやっていることを自分で納得出来れば、展望は開けると思いますよ。頑張ってください。