伊藤滋先生

(2012年10月2日)
都市工創設時の理念とその後の展開、今後への期待についてお聞きしました。
聞き手(文責):城所哲夫、大森宣暁

都市工学科創設時の理念はどのように生まれたのでしょうか?

なぜ、都市工学科が出来たのかというのは、昭和30年頃からの日本の変わりようというのが鍵になっているので、そのあたりから話をはじめたいと思います。

昭和35年に池田勇人元首相が打ち出した所得倍増計画には、直前に成立した太平洋ベルト構想が大きな影響を与えていたのですが、この構想は、通産官僚が、日本を元気にさせるためには、沿岸部の開発を行って大規模工業基地をつくり、日本の経済を活性化するしか道はないという考えからつくったものです。石油や鉄鉱石をアメリカやオーストラリアから直接持ち込んで、重化学工業を起こそうというアイデアです。当時、船賃も日本人の労働賃金も安かったし、質の高いものを安い値段でつくることができるということで、みなさんご存知のように、大成功したわけです。

太平洋ベルト構想を作る際、池田勇人は日本の科学技術を発展させるほかに日本の将来はないと考えていたし、官僚もみんな、そう信じていた。そして、そのために、大学を大拡充すると宣言したわけです。この国家政策に支えられるかたちで、全国の大学における工学分野の倍増計画が始まったのです。僕が東大に入った昭和26年の定員は2,000人ぐらいだったのが、都市工が出来た昭和37年には3,000人位になっていたのです。このプラス1,000人というのは、ほとんど工学部と理学部の学生です。僕がいた時の学科数は10学科程度であったのが、学科増設するといって、まず、機械系が三学科体制になった。そのあと電気系が二学科体制、化学系が三学科体制になった。そして学科増設のはじまった4年目の昭和37年には、原子力、都市工、物理工学、計数学科が増えて、都合、4年の間に、工学部は10学科が20学科へ、学生数が約500人から約1,000人と、2倍の大きさになったわけです。

このプロセスの中で、土木工学科は早い段階から「衛生工学科」新設草案を打ち出し、建築は1年遅れて「都市計画学科」草案を打ち出したのです。しかし二つはできないということで、当時学部長であった耐震構造の世界的権威の武藤先生のもとで、衛生工学と都市計画を併せて、8講座体制の「都市工学科」として申請したのです。この8講座という講座数は、当時としてはチャレンジングで、結局6講座程度に収まるだろうとの見方が強かったのですが、結果的に8講座が認められた。それには、文部省のヒアリングの際に、以下のようなやりとりがあったということを後に高山先生から聞きました。

(文部省担当課長)「結局、土木は土木で、建築は建築、それぞれやればよいのではないでしょうか。新しい学科をつくる必要はどこにあるのですか。」

(高山英華先生)「課長は、今どこに住んでいますか。吉祥寺ですか。今、吉祥寺の駅前はひどい状況になっているでしょう。ちょうど今、私の研究室で吉祥寺駅前の再開発やっているのですが、今度あそこに新しい道路ができます。その道路に、バス路線を通して、まずは、商店街を発展させます。さらには、大学跡地を利用して、百貨店の誘致をして、まちをさらに発展させることも計画しています。こういうことは、建築、土木、それぞれ単独にやっていたのでは出来ません。都市計画の技術者がその場に行かなければできず、そういう技術者を作るのが都市工学なのです。」

(文部省担当課長)「そうか、そういう技術ですか。よくわかりました。たしかにそれは街が良くなりますね。」

このやりとりが効いて、8講座になったのです。6が8になったのは大きい。もし6講座だったら、土木が3(上水、下水、交通)、建築3(都市設計、土地利用、住宅)だったわけです。都市防災などは入らない。もし6つだったら、僕はここには居ないで、都市交通の知識を活かしてタクシー会社の社長でもやっていたかもわかりません。

都市工創設時の講座構成はどのようなものだったのでしょうか?

建築の関係について言うと、まず、3講座が先に設置されて、第一講座が土地利用で高山先生、第二講座が都市設計で丹下先生、第三講座が住宅で日笠先生が着任されました。そのあとで、僕が着任した昭和40年に都市防災講座が認可されました。高山先生が第一講座から移動し、第一講座に日笠先生が移ったのです。

交通についてはどうだったのでしょうか?

交通は土木から出たけど、都市計画に入っていたのです。土木4、建築4だけど、都市計画が5講座、衛生工学が3講座となったのです。というのも、交通がなかったら都市計画は成り立たない。

先生がご担当された「都市防災」と「国土及び地方計画」の講義はどのように始まったのでしょうか?

僕は、助教授時代、高山先生担当の「都市防災」はほとんど講義していたのです。「都市解析」の講義も、はじめ下総先生と一緒に担当しました。しかしそれだけでは関心が収まらなくて、「国土及び地方計画」という講義も作ったのです。土木には八十島先生の「国土計画」という講義があったのですが、都市計画でも必要だと主張してやらせてもらった。

この地方計画の中には都市以外の地域も入る。僕は林学出身だから、非都市的な土地利用に対して、それなりの見方を教わってきています。山村の調査などもずいぶん一生懸命おこないました。土木における国土計画はインフラだが、都市工学科の国土及び地方計画は、土地利用主体の話であって、特に非都市地域の話を扱った。結果として、僕自身も、農学のバックグランドがあり、経済学も相当に勉強してそれなりに通じていたので、国土及び地方計画に関係して、色々な場面で重宝されました。その最たるものは、新全総をつくる際に、若手の通産官僚、研究者が集まっておこなった議論で、その議論をまとめた本(昭和42年刊)は、僕の講義でもよく使いました。

都市防災は、火災の延焼シミュレーションなどの話もしたのですが、木造密集地域の不燃化という、都市防災の本命の話をもっと中心にすえればよかったと思っています。

演習についてはどうでしょうか?

演習は重要です。僕が、昭和38年にハーバードの演習室に行った時、そこではエンジニアリング的、造形的な作業はまったくやっていなかったのです。住宅再開発をするときに、反対する住民がどうしたら納得してくれるか、納得しないときに開発をどのように縮小すべきか、というような話とか、市役所の中で財源をどうするかというような話をしていて、完全にソフト化していたのです。そう変わったのは昭和35、36年頃だと思う。第二次世界大戦で逃げてきたヨーロッパの都市計画家は図面を描いていたのですが、その後の新しい世代は造形的なものよりも、数学的に人の移動がどうなるか、土地利用がどう変わるか、あるいは住民とか財政とかの話をしていて、演習もそういう内容を重視したものになっていたのです。一方で、ランドスケープの人たちは図面や模型を作り、空間を見ていました。

たしかにソフトの話も重要なのですが、都市工学科の演習は、やはり、空間的なものを大事にしないといけないと思っています。だから、僕は、演習で模型を作れとよく言いました。特に50分の1がいい。これを作っていると寸法感覚が体に入ってくる。これは、なかなか出来なかったのですが。

当時はニュータウンも再開発も現実性があり夢があった。交通も元気があった。交通に関しても、首都高の立体的な構造とか、ランプとかの設計とか、そういうのをトレースでもいいからやったほうがいいと思う。都市の中の交通施設の寸法感覚というのが体に入ってくる。

今は交通でもバリアフリーの議論が重要になっています。

バリアフリーにしろ、図面を書かせないと体に入ってこない。

寸法感覚という点でぜひやるべき演習として何かご提案がありますでしょうか?

日本の特色である低層、木造、密集市街地のリハビリテーションの絵姿を描かせることが大事だと思う。そこには全部の要素が入ってくる。土地利用も交通も住宅も。

4年前に、3年間プロジェクトでMITの都市計画と建築の学生をミックスして、多摩ニュータウンの30年後の新しい住宅市街地像を考えるという報告書をつくったのです。市民社会に対して都市計画を出すときは、どうしても空間的イメージを出さないと、話の導入部ができない。MITのそれも随分日本のことを理解して描いてくれ、尺度をきちっと押さえて、たいへん面白い報告書ができました。こうした立体的なスケールを押さえる演習がなくて平面的な話だけをしていると、都市工学科って何だ、という感じがしてくるのではないでしょうか。

僕はアラン・ジェイコブスのGreat Streetsという本をよく参考にしています。これは完璧にスケールの練習です。こういうことを都市工もやらせるべきで、こういうことを描いて人々に説明するのが大事だと思う。僕も非常勤講師をやろうかな。演習だけ。

最後に、都市工学科へのこれからの期待をお聞かせください。

僕たちのときの都市工は、まだ国が賑やかに変化して行く時代だったから、図面を描いても実際に使われる可能性は大いにあって、また実際に役立っていました。これからどうなるかは難しいが、ひとつだけ言いたいことは、今の皆さんのやっているような議論をやってくと、食べていけない人ばかり増えていくように思えるのです。土木は実業の世界と結びつくからそんなことはない。建築は、建築ジャーナリズムとかスター建築家というような社会があって、存在意義がある。が、都市工は、都市計画の調整というような話ばっかりやっていると、食べていけなくなるんじゃないか。日本の中で都市計画を背負っている学部の多様性として、スターになるような先生、お金の流れが良くなるような先生が出てくるような分野が必要だと思う。その意味では交通に注目しているのです。実社会の中で交通がもう少し街のなかで提案や設計をしてもいいと思います。

今の先生はみんな優等生で訳知りになり「人々と一緒に手を組んで」ということばかりやっている。それももちろん大事だけれど、もうすこし、都市工学科が、日本のなかで、できれば、アジアの中で華々しい存在にならないといけないのではないか。

都市計画学会の論文でも、世の中を変えるプロダクティビティが見えず、自己分析をして自分を納得させて終わり、というような論文が多いように思う。若い学生が夢を持って入ってくるのだから、それに応える教育の仕方や先生のスタイルがあっていいのではないでしょうか。みんな真面目な学者になっちゃったというのではなくて。

たとえば、スマートシティ。ああいうとことは空調系、設備系、建築に任せるのではなく、都市工がやるべきだと思っています。都市の中のエネルギーをどうすべきか。そういう領域で、実社会と結びついて都市計画がやるべきだと思う。今、新宿西口で日産とKDDIが電気自動車レンタカーの事業利用などを進めています。そういうのも都市工から提案して、そうして、ビジネスに近づくべきだと思うのです。これだけ、PPPとかいっているわけなので、工学部なんだからそういうマーケットを捕まえるべき。スマートシティ以外でも、社会では高齢化や介護も注目されている。とにかく日本を元気にさせるための種を大学で作って行く、そういう使命を都市工は抱えていることを再認識してほしいと思っています。

つまり、若い学生を納得させるような、都市工に花をつくれ!と思う。花になるような先生が出てくることが大事です。

リアリティが少し位抜けてもいい。それを街として作り上げて、絵姿を描いて、ワンセットのストーリーにして、人々に実証実験や理屈の組み立てをもって説明し、問うということが大事と思います。